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マンタム

なんなら今の自分があるのは半分くらいこのオッサンのおかげだと思っている。オッサンとの出会い、というのはあまり正しくなくてまあ最初は通りかかっただけだ。出会った、と言いたくなるのはその後の関係性がそう言わせるわけだが、まあとにかく蚤の市の外れにその店はあり、オッサンはそこの主であった。まだ自分が何物にもなれていなかったハタチの頃。まあ、いまも何物でもないんだけど、もっとなんにも持ってなかったうえに人生ちょっとだけつまずいて日々鬱々と過ごしていたハタチのある日、特にすることも無く、さりとて金があるでも無く、家でじっとしているのがイヤで横浜をブラブラしていたら地下鉄のコンコースでフリーマーケットをやっていた。まだバブルの匂いが強かった当時は今ほど古着に市民権は無く、それも原宿や下北沢の洒落た古着屋ではない、仕入れ先はおそらく粗大ゴミだろう、という路上のフリーマーケットでジーンズを買おうなどと言うのはよっぽどの暇人か貧乏人か物好きであったように思う。それらにほぼ当てはまった僕はそういうフリーマーケットが好きだった。運が良ければちょっと色のさめたLEVI’SのBig E赤耳が「ユニクロかよ!」ってくらいで手に入ったり、だいぶ着込んだギャルソンのジャケットが捨て値で見つかったりすることもあり、時間だけはたっぷりある僕はそういう店が好きで丹念に見ていたのだった。そんななかにあったのがオッサンの店である。

肩までのもじゃもじゃの長髪、伸ばしっぱなしのヒゲ、光沢の無い銀縁の丸眼鏡、薄汚れた服…一見ホームレスのような年齢不詳のそのオッサンの店は界隈の店とはだいぶ違っていた。
店の区画に敷き詰められたブルーシートの上は明治・大正・昭和初期といった(そういえばこのころはまだ昭和なのだ)古い柱時計やら着物やら瀬戸物やら背広やら何に使うかわからないようながらくたで埋め尽くされており、さらに決定的なことにギターやベースが置いてあった。ただでさえ骨董的なものが大好きな(しかし目利きでは無い)僕の足はもちろんそこで釘付けになった。
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今考えると古道具屋(アンティークショップとはまた趣が違う)というのは当時のバブリーな日本の中ではものすごく異質だったように思う。骨董品というのは錆びたり朽ちかけたり時代と物語を経てほとんど無用の長物であるはずなのに美しく愛おしい。「バブル的なあれこれ」にどうにもなじめなかった、今よりもっと世間と折り合いの悪かった自分にはなんだかそういった世界がとても居心地が良かった。今や時代にそぐわずほとんどの人が顧みない無用のものたちがこの浮かれた世界に存在する。それらに囲まれたおそらくそんなに歳をくっていないそのオッサンもまた只者ではない「骨董」感を放っていて、まるで時代やら世間やらとは関係なく、ただあるがままの自由さで存在するオッサンが羨ましく、当時の僕は勝手に共感したのだろう。
足を止め無言で店の品々を見る僕にオッサンは気さくに話しかけてきた。こちらは思春期をこじらせた生意気でアホな若造なのでふーんなどと涼しい顔を装って、時間だけはたっぷりあるので隅々まで見ていろいろとそこにあるものたちの話をしてもらい、ギターやベースを試奏し、だいぶ長く居座ったように記憶している。そして、昭和の30年代であろう仕立ての良い、しかしサイズはかなり太めな、茶色のギンガムチェックのような三ッ釦の背広上下を3〜4000円で売ってもらった。これは本当に気に入っていてサイズを直して若い頃よく着ていた。今でも大事に取ってある。
そんなわけで日々鬱々としていたサカヨリ少年はそんな怪しくも自由で美しいがらくたの山とその保護者であるオッサンにとても惹かれてしまったのだった。
そのフリマは月に一回、一週間開催されていたので、そのほとんどの日、午後から夕方にかけて居座りギターやベースをいじり、ちょっとだけ店番をしたり、荷物の上げ下ろしを手伝ったりしながら入り浸るようになった。
本当に恥ずかしい話だが当時の自分は何のビジョンもないまま中堅の文系大学の受験に失敗し浪人中であったから本来はそんなことをしている場合では無い。しかし中学生くらいから漠然と考えていた「デザイン的な仕事」への望みを捨てられず悶々としていたのだった。あるのか無いのかわからない「才能」がモノを言う世界へ行きたい、けど俺にそんな才能無い行けるわけが無いと試す前からふてくされていたのだ。
世は猫も杓子も大学へ行き、サークルでキャンパスライフを満喫し、大手企業の青田買いでさっさと入社を決めたら海外研修、終業後はプールバーで遊んでタクシー帰り、ボーナスで車を買って高級レストランでクリスマス、なんてことがホントにあったご時世。そういったことにほとんど魅力を感じないけれど自分もそうするのがいいはずだ、とこれまた信じ込もうとしていたのだった。
そうして話していると、なんとオッサンは昔グラフィックデザイナーであったと言う。
そもそもこのオッサンはノーガードというか本当にあるがままそこに居る(適当・いい加減・行き当たりばったりとも言う)上に、失礼ながらどう見ても「社会不適合者」なので、「こんな生き方しても大丈夫なんだ!」と、ドロップアウトしたい少年にとってはとっても頼もしい「アウトサイダーの大先輩」であり勇気をもらえる存在だったのだ。(今考えればデザイナーになることなどドロップアウトでも何でも無いのだが)それが証拠にあのころのオッサンの店には、どこへも行き場の無いようなかといってやさぐれることもできないような、おんなじ感じの若者がいつも数人いた。
店に通い、オッサンに相談し勇気をもらい、そうこうするうちに季節は過ぎ、サカヨリ少年はお金のほぼかからないデザインの学校を見つけ、今度こそ勉強を始め、両親に大学へ行かずデザイナーになる!と宣言することになるのであった。
めでたく専門学校に受かり卒業し、晴れてデザイン事務所に就職し、いつしか顔を出す回数も少なくなり、気がつくと月イチのフリマは廃止されてしまったようで、携帯電話など無かった時代、お互いの本名もよくわからない僕たちはそのまま音信不通となった。
それからの僕はデザイナーとして仕事も順調でやがて結婚し子供も生まれ、オッサンを時々思い返すものの手がかりも無く、言ってみれば「若い頃に影響を受けたアーティスト」のような、すっかり思い出の中の人となっていたのだが、子連れで出かけたある日、代々木公園のフリマでバッタリ再会した。小さな陶器製の柴犬を子どもにくれた。
オッサンはあいかわらず風呂嫌いらしくちょっと臭くてボサボサの野良犬みたいだったが、屈託の無い笑顔で元気そうな姿を見て嬉しくなったものだった。しかしそこでもまた連絡先をやりとりせずに手を振り別れた。どうにもアホっぽいし、オッサンにあとで聞いたところ、このエピソードは記憶に無いらしいが、僕としては「うん、これはまたどっかで会えるな」という根拠の無い確信があったのだった。
そういうわけでまた十年くらい経ったある日、ふとまた「どうしているかな」と思い立ち調べてみた。そう、今はインターネットで人探しができるかもしれないのだ。ただし、あいかわらず本名というかフルネームは知らなかった。「マンタム」と名乗っていたことを思い出す。
検索してみると驚いたことに一瞬で答えが表示された。さらに驚いたことに「本当のアーティスト=作家」になっている。さらにさらに、あんなにレトロでアナログだと思っていたオッサンがfacebooktwitterアカウントを持っている!!!
我が目を疑ったがあんなに濃いオッサンはそうそう居るものでは無い。間違いようが無いのだ。
さっそくSNS経由で連絡を取ったら覚えていてくれた。
ネットはいろんなことを教えてくれた。オッサンはなるほど古道具屋らしい、そして彼の美意識を窺わせる作品を創っていて、それはずいぶんと奇妙だったり不気味だったりするのだけれど、僕はあの頃の横浜地下街で感じていたのと近しい匂いとか温度を感じたのだった。そして着実にそれを評価してくれる人たちがたくさんいるのだということもわかった。
それからはある意味、毎日会っているようなものだ。こうなるとまた本来出不精な僕は会いに行くことを先延ばしにし始めた。まあ恋した相手が見つかったというわけではないから、そのぐらいでいいと思っていたのだけど。必然さえあれば黙っていても事は起きる。
かれこれ一年くらい過ぎただろうか今度はオッサン、本を出すと言う。あまつさえサイン会を開くという。人生は何が起こるかわからない。
こうしてようやく僕はオッサンとの再会を果たしたのだった。
浅草橋にある、あの頃よりも純度を増した骨董や作品がひしめき合うギャラリーで
オッサンはあいかわらず臭くてボサボサの、でも人なつっこい野良犬みたいに
「わはははは!老けたなーwww」と言って、笑った。
「そりゃそうだよw20年だぜw」俺も笑った。
本はこれから読む。
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